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>第一次幕長戦へ ■征長総督就任問題 【京】元治1年9月23日、老中稲葉正邦は、将軍の上使として、徳川慶勝に、陣羽織及び采配を下賜するとともに、敵の動静によって臨機に攻口を改め、慶勝の存慮次第で十分に指揮せよとの台慮を伝えました。 同日?慶勝は、総督を請けるにあたって征長の全権授与を請う上書を老中に提出しました。 参考:『維新史』四p134(2018/7/29) ■将軍進発問題&幕府の会津藩忌避 【京】元治1年9月23日、江戸の会津藩重臣は、将軍進発督促について、京都からの会津藩使者が幕府に忌避されているため、諸藩が「天下の公論」をもって周旋していること、また公用人野村左兵衛が諸藩から得た情報を報じました。 (書状のてきとう要約)
<ヒロ> 京都公用人の野村左兵衛は将軍上洛督促のために、8月上旬に東下していましたが、なかなか老中に会ってもらえず、9月9日にようやく会えたもので、あまりにも迫ってしまい、幕閣に忌避されてしまったようです。大目付から、手続きを踏んで登城して面会を要請するようにと言われたので、登城して頑張ったのも嫌がられていたようです(こちら)。ちょうど東下してきた新選組近藤勇らを使って幕閣を脅迫しようとしていると疑われているという噂もでるほどでした(こちら)。そんなわけで、諸藩には<ここは自分たちにまかせて、少し身をひいてね>と言われてしまったわけですが、野村が、それで「天下の公論」に任せる方針を受け入れたというのが興味深いです。野村は9月には、諸侯会議による開国・鎖国の国是決定を京都に進言していますし(こちら)、会津藩士にしては(失礼)柔軟です。野村が京都に戻った後も、この柔軟姿勢を維持していたのかどうか、気になるので、追いかけてみたいです。 <↑それまでの経緯> 禁門の変を契機に関係が強化された一会桑は、朝廷(特に二条関白・中川宮)と結びつき、朝廷と幕府の融和を促進しようとした。一会桑は、「朝敵」となった長州が混乱に陥っている間に速やかに将軍が上洛し、征長の指揮をとることが、朝廷尊崇・幕威回復になると考えた。東下する阿部正外に随従させて、将軍の急速上洛を促す使者(会津藩は公用人野村左兵衛・公用方広沢富次郎)を送った(こちら)。また、四国艦隊が下関を攻撃する前に長州を追討すべきだとも訴え、下関戦争後は、四国艦隊の早期長州退去を促すよう求める使者(会津藩は公用方柴秀治)を送った(こちら)。幕府が外国の力を借りて長州を討とうとしているという噂を危惧したためである。しかし、将軍上洛は進まず、8月下旬には、朝廷も人心に障りがあるとして将軍の急速上坂を命じた(こちら)ので、一会桑は朝命遵奉・将軍上坂を督促した(こちら)。また、征長総督問題については、徳川慶勝が就任を固辞し続けたため、肥後藩・会津藩・桑名藩の間で慶喜を総督にして速やかに征長を行うべきだとの論が起り(こちら)、会津藩・桑名藩が尾張と江戸に使者を遣わし、慶勝と幕府に周旋を行おうとした。 ところが、同じころ、江戸の幕府首脳は、参勤交替の復旧など幕権回復志向を強めており、京都や諸藩の政治介入を極端に忌避していた。8月下旬に柴秀治が京都に報告したところによると、江戸は京都とは「一体気候違居、兎角御因循」で、慶喜は「存外御疑被居候振合」だった。幕府の威権が近年の言路洞開によって損なわれたという考えから、「大塞蔽之極」になっており、「御役人御逢無之」、また江戸詰の藩士に対しても幕議の内容を「近頃は何も御洩無之」という状況だった(こちら)。8月6日に着府した野村左兵衛も老中に1カ月近く会えなかった。しかも、ようやく会えた老中本庄宗秀・老中格松前崇広は左兵衛の言葉が「御心に入候様子」がなく、征長総督に慶喜を推したところ「御腹立之御様子」だった(こちら)。 参考:『京都守護職始末』p115-118(2018/8/12) 関連:テーマ別元治1■一会(桑)の対立から協調、在府幕府との対立■第一次幕長戦へ(元治1) |